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12/11/2013

ミシュカの森2013 光は、ときに悲しみを伴う。

ミシュカの森2013 
光は、ときに悲しみを伴う~『クリスマス・キャロル』を読む~

絵本の活動がきっかけで、
ミシュカの森を主宰する入江杏さんと出会い、
今回ありがたくも司会を務めさせて頂いた。
ここ数日ずっと、
胸の中で反芻している。

まだうまく内面化できていないのだけれど。
これからずっと、考え続けたい、気づき続けたい、
たくさんの「コトバ」が迫ってきた。
基調講演は、批評家の若松英輔さん。
衝撃だった。
巨大な衝撃を受けたのに、
若松さんは、どこまでもやわらかく透明で、
直接お話した印象も、まるで風のような人だった。
コトバは、僕から出ているものではなく、
僕を通過しているだけ、と話されるのも印象的だった。

『見えないことと、存在しないことは違う』

石巻の被災者の方々の前では、
「どこまでも幸せに・・・」と語ったそう。
死者は苦しんでいない。
死者の唯一の願いは、生者が幸せになることだと。
だから、どんなに苦しくても、
自分の存在が無意味だと言ってはならない。
無意味だと思うことと、本当に無意味なことは違うんだとも。
入江さんは、
世田谷事件で、大切な妹さん一家を亡くされた方。
ずっと罪責感を感じてきた・・・
石巻でのエピソードを知った入江さんは、
その思いがあふれたとおっしゃっていた。
声を震わせながら、涙を拭いながら。

それから、若松さんはこんな風にも。
クリスマスは、『和解』の時期。
「これが善」「これが正しい」と思うとき、
人は視野が狭くなっている。
「僕が正しいと思うことを為さない人は、悪である。」
と言うのと同じことだから。
「わかることと、変わることは違う」
変われなかったら、わかったということにならない。
自分を変えてくれる他者に向かって開かれていないと、
ものがわからなくなる。

悲しみとは何か。
光とは何か。
他者に心を開くとはどういうことか。

いま、テレビの報道という、
映像や、言葉などが、可視できる世界にいるけれど。
もっともっと、不可視なものに、
目を凝らし、耳を傾け、思いを馳せなくてはならない。
全貌を見ようとする努力が必要だと、
痛いほどに感じた。

若松さんと入江さんのコトバと、生の声が、
心と身体にじんじん沁みてきて。
私は、舞台袖で、
涙が止まらなくなってしまった。
それは、何か大きなものに抱かれているような感覚だった。

入江さんがおっしゃる、
『悲しみの水脈』は、きっと確かにある。
その水脈で、人と人は繋がっている。
最後に舞台に出て、観客席を見渡したとき。
会場にいらっしゃった皆さんの、
心打たれたその表情が、あまりにも美しく、
そう感じずにはいられなかった。。

『悲しみこそ光だ。
光源は、どんな光を発しているか知らない』
という若松さんの言葉をお借りするならば・・・
入江杏さんこそ、まさに光だと思った。
彼女の思い、活動、コトバに、
救われ、勇気づけられている人はこんなにも多く、
これからもずっと、
その水脈の先の一人一人に届いていくのだろうから。

入江さん、若松さん、当日入江さんをサポートされたみなさま。
悲しみに思いを寄せ、
それぞれの光について、思いを巡らすときを分かち合ったみなさま。
こころから、ありがとうございました。
悲しみを生きる力に 被害者遺族からあなたへ』 入江杏 著 岩波ジュニア新書
魂にふれる 大震災と、生きている死者』 若松英輔 著 トランスビュー